Sunday, July 19, 2009

森鴎外「雁」について

 
 最近、森鴎外の「雁」を読みました。私としましては次のような不満があり、小説として楽しめませんでした。皆さまのご感想をお聞かせくだされば幸甚です。

1. お玉と末造の間柄を詳しく書いておいて、急に末造をカットしてしまった。

2. お玉と岡田が接近する有様を、蛇事件を交えながら詳しく書いておいて、急に岡田を洋行させてしまった。

3. 雁が死んで僕と岡田が池を一周する時に、岡田は僕に対して「僕は君に話すことがあるのだった」と言う。当然、読者は岡田がお玉のことについて話すだろうと予想するのに、予想を裏切って洋行の話が突然出てくる。小説の話の展開としては不自然。

4. お玉と末造と岡田の三角関係がどうなるだろうと読者に気を持たせておいて、急に話を洋行という設定で終わらせてしまう。強引に話を終わらせている。

5. 鴎外は今まで書いてきた「雁」の話を読み返して視点のズレがあるのに気が付き、急遽ズレを弁護するため「鏡の左右を合わせた」というような屁理屈を最後に付け加えて何とか矛盾を切り抜けようとした。しかし、末造、お常、お梅の心情、末造とお常のやり取り、お常と女中の会話はどのようにして分かり得たのか疑問。
 文学者の中には「僕」は「僕」を超えた役割を与えられている語り手だとか、ズレ・間隙こそが真に生産的だ、というような分かりにくい考え方をする人がいる。これでは一般の読者が抱くズレの疑問は解決されない。

6. 鴎外は「僕」の視点で書いていくうちに全知視点になってしまい、それに気が付き、今更全部書き直すのは惜しい気がして、最後に視点のズレを無理に修正した。だから、恥の上塗りというか、ズレを弁護して、その弁護をさらに「無用の憶測をせぬがよい」などと言ってダメ押し弁護をせざるを得なかった。

7. 鴎外は「雁」の小説を尻切れトンボで終わらせなくてはならない時間的、精神的理由があったのではないか。小説が読者を楽しませるものならば、鴎外ほどの小説家なら全部初めから書き直してもいいはずなのに、なぜこのような不満が残る「小説」を書いたのか。小説はその内容そのものが勝負であり、読者に感動や楽しみを与えるべきものなのに、「雁」は感動、楽しみどころか小説の不備、不具合で読者に内容以外の周辺的な事柄で余分な神経を使わせている。罪な小説だ。

8. 鴎外は以上のような読者の不満を知り尽くしていて、なお、わざとあのような「小説」を世に出したのだろうか。もしそうなら、その狙いは何か。「雁」のズレ的小説手法について文学者が喧々諤々、論文を発表しているが、鴎外はそれを狙ったのだろうか。そうなら成功しているが、小説としては失敗ではないのか。

9. 「小説」は一流の作家になれば、視点のズレ等を含めて、何をどのように書いても自由なのか。それが許されるのか。


 みなさん、ご意見を下さい。

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